謙虚さは、生きる上で大事なことだと思う。傲慢さによって成長も止まり、大きなミスを犯し、また人もだんだんと離れていくことになる。自らを過信することなく、初心を忘れず、他者にも敬意を持ち、様々なことから学んでいく姿勢が、謙虚と言える。
一方で、謙虚さと一見よく似たものに、卑屈さがある。卑屈とは、いつも「自分なんて」と卑下し、自分を価値のないものと思い込むことによって、必要以上に自分をさげすむことを指す。
似ているとは言いつつも、謙虚な人と卑屈な人では、明らかな違いがあるように思う。そして、それは本人の繊細な心理まで覗き見ることなく、その人の態度や言動を側から見ているだけでも、なんとなく伝わってくるものがある。
お笑い芸人の明石家さんまさんは、仕事において、たとえ失敗しようとも落ち込まないのだという。その理由として、自分を過大評価していない、という点を挙げている。自分はもっとできたはずなのに、と思うからこそ、実際にはできなかった自分との落差に落ち込むことになる。でも、そういったことも含めて、今日の自分がすべてなのだ、とあるがままを受け入れれば、落ち込む要素も入り込まない。
さんまさんの言葉には、謙虚さこそあれども、卑屈さは感じない。むしろ、「卑屈さとは何か」「卑屈と謙虚の違いとは」ということについて語っていると言えるかもしれない。
もっとできたはずなのに──と落ち込むとき、そこには、「本来の自分は、これくらいできるはずだ」という自己評価がある。だからこそ、現実の自分との落差に傷つくことになる。自分を低く見ているつもりでも、その落ち込みは、理想の自分を高く見積もりすぎていたことの裏返しなのかもしれない。
そして、その理想の自分と現実の自分との落差を埋められないまま、「どうせ自分なんて」と自分を卑下するようになると、そこに卑屈さが生まれる。卑屈さの根っこには、今をありのままに認めるのではなく、「本当はもっとやれる自分」という過大な自己像が隠れていることがある。自分を過信しないのが謙虚だとすれば、卑屈さは、むしろ過信の側にあるとも言える。
傲慢な人は、「自分はこれくらいできる」と思い、卑屈な人は「自分なんて何もできない」と言う。一見すると正反対に見える。でも、どちらも「現実の自分」ではなく、「こうあるはずの自分」に強く囚われている点では似ているのかもしれない。
その意味では、卑屈さと傲慢さは、同じ「過信」の姿の裏表に過ぎないとも言えるのではないだろうか。
謙虚な人の、あるがままを受け入れている姿勢は、「褒められたときの反応」によっても現れる。謙虚な人は、その言葉をいったん受け取る。その上で、自分に足りない場所を静かに数える。一方で、卑屈な人は、「そんなことないです」と即座に打ち消す。謙遜のつもりかもしれないが、それは相手の目を否定する行為でもあり、自分を下げることで、相手の判断まで下げてしまっている。
また、そのあとの行動も違う。謙虚な人は次に進む。足りないとわかったのだから、やることは決まっている。卑屈な人はその場に留まり、予防線を張りはじめる。どうせ自分なんて、と言っておけば、次に失敗しても傷が浅くて済むからだ。
謙虚さと卑屈さは、一見似ているようで、日頃の態度や物事に対する姿勢によって、はっきりとした違いが見られる。
謙虚であるということは、自分を低く見ること(卑屈)ではない。自分を大きくも小さくも見積もらず、あるがままの自分を受け入れることなのだと思う。そして、だからこそ、人の言葉にも耳を傾け、失敗からも学び、また次へと進んでいくことができるのだろう。